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副会長 臼田 暢
本日の卓話は「初代会長に学ぶ」と題し、初代会長である高塚信和会員に卓話を頂戴したいと思います。初代会長は千歳に古くから開かれた千正寺にルーツがあり、千歳の歴史の知識に大変長けていらっしゃいます。今日は千歳の歴史からご自身の千歳との関わり、またロータリークラブとの関わりなどを深くお聞きしたいと思います。宜しくお願いいたします(2021.2.2)
 卓話「初代会長に学ぶ」 
初代会長 高塚信和
私もロータリーに入って30年を超えています。最近は中々卓話の機会に恵まれずに居りましたが、今日は貴重な時間を頂きました。
会長は、初代と第19代の2回やりました。今日は、レジュメに書いてありますが、「私の人生とロータリーの出会い」として4つの項目に分け、恐らく皆さん方が千歳に住んでいてもよく分からないこ事、私が先輩諸氏かお聞きした事などをお話させてもらいます。皆さんが感動するように話をしたいと思います。
項目4つ目のコロナについては、これから秋に収束するかもしれませんが、どのように変わっていくか見当がつきません。順当に考えるならばあと4年ぐらいのタームを要すると思います。まずはコロナを、皆さん自らよく注意してください。

「私の人生とロータリー」
1. 私の生れた千歳の歴史
2. 私を育てた千歳
3. ロータリーとの出会い
4. コロナ時代、今後の想定されるシナリオ

ここに北海道の地図があります。
北海道がどのようにして誕生したのかがわかります。大昔は2つの島に分かれていました。
千歳辺りに1200年の鎌倉時代、アイヌ文化が入ってきました。当初はアイヌ語で「大きな窪地」という意味のシコツという地名でした。千歳に改名されたのは1635年に松前藩によってシコツから和名の千歳に改名されました。北海道では珍しくアイヌ語由来ではない和名の名前です。
現代千歳市が発展しただろうと思われる過程でひとつの負の歴史があります。そのひとつの負は王子製紙です。明治38年、つまりロータリーが出来た1905年に王子製紙が水力発電を利用して製紙工場を作るコンペが行われました。苫小牧村と千歳村で誘致を競いました。千歳村に誘致が傾きかけていましたが、同年に鉄道室蘭線が出来る運びになり、地の利が良い苫小牧に決まりました。千歳村に鉄道が通ったのは遅れること大正15年でした。
もし、このコンペで千歳に決まっていたのなら、苫小牧市の人口は現在約17万人ですが、現代の交通の要所、豊富な水脈を有する千歳はおそらくの20万人以上、苫小牧は10万人にも満たなかったかもしれません。桂木から大和にかけて製紙工場が出来る予定だったそうです。
この時、国鉄が千歳経由となっていれば輸送の大動脈になる予定でした。如何せん根回しも悪かったのと石炭輸送を優先し室蘭線がすぐに開通し千歳は負けました。しかし、今現在は皆さんも承知のとおり千歳線が表街道、室蘭本線は廃線も噂される裏街道になっています。
そして、もうひとつ大きな負の歴史は、千歳川の水利権を長沼町に譲ったという事です。
この2つが大きな千歳の負の歴史です。
その後、大正15年に飛行場が出来ました。
皆さんに山線と支笏湖についての貴重な資料を配付しています。実は、千歳に汽車が走ったことを記念して飛行場を作ろうとしたのが、空港のことの始まりでした。小樽にある北海道新聞の前身で北海1号機が飛んでここに降りました。

── その他、千歳鉱山など千歳の歴史、人生の転機、ロータリーとの出会い、ロータリー国際大会参加、長泉ロータリークラブとの出会い、米山梅吉記念館への寄付など貴重なお話を卓話いただきました。